「先生、」
僕はノックをした後部屋に入る。其処は相変わらず薄暗くて湿っぽくて埃が舞っていて温かかった。
「先生、食事の時間です」
言った所で聞こえはしない。それでも大義名分の為にその言葉を口に出し僕は部屋の中で本に埋もれている男性の元へと行く。
男性は寝ていた。何日も着替えていないであろう薄手の青系のジャケットはよれよれになっていてシャツには皺が寄っている。彼の細身の体は必要な栄養を彼が摂ろうとしない為に更に細くなり弱弱しくスーツの中に収まっている。読みかけの本の開いたページに眼鏡が乗せられていて彼自身はその横で倒れる様に寝息を立てていた。
彼は自他を問わず食事を嫌がった。なので僕は彼が寝ている間に自分の食事をし、彼に栄養を流しいれた。
「おやすみなさい」
僕が彼の傍を離れた時、彼は恐らく起きていただろうが目を開けようとはしなかった。
僕が彼に会った時、彼は既に『先生』だった。学校の教師ではないが知識が豊富で、請われれば家庭教師の様なこともしていたらしい。彼は知識階級の人間で有名な大学にも通っていたらしい。その時分から変人の名は通っていて、教授と一悶着起こして居れなくなり各地を転々として辺鄙な村に流れて来たということだった。
彼の未完の卒業研究のタイトルは『1698』。
僕は尋ねた。
「何で1698年なんですか。そんな昔のこと。特に大きな出来事も無かったでしょう」
彼は穏やかに笑った。
「理由なんてどうでもいいんだ。僕は調べたいだけなんだから」
こういうのを世間では拉致とか監禁とか言うのだろうか。確かに彼は僕の屋敷に来てから一回も外に出ていないし日の光も浴びていない。食事も休息もまともに取っていないがしかし、それは彼が望まないからであり僕は彼が望むなら普通のパートナーとして生活していくつもりだ。それなのに彼が望んだことはただ一つ、『1698に関する資料を提供すること』。
彼が1698をただの興味から調べている訳ではないことはとっくに分かっている。僕は食事をさせてもらう代わりに彼の望みを叶えているし、彼もそれは納得して満足している筈だ。
なのに、どこで間違ってしまったのだろう。
飢 え が 乾 き が 止 ま ら な い